夕方を過ぎた頃、店の扉が静かに開いた。入ってきたのは、見慣れない青年だった。スーツはよれていて、顔色もあまり良くない。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
彼は通路側のカウンターの端に腰を下ろした。メニューも見ずに黙っている。しばらくそのままだったが、ため息を吐いた後、低い声で言った。
「コロンビアのホットをください」
珈琲を淹れているあいだ、彼はずっと黙って俯いていた。カップを置くと、彼は目線を落としたまま、手だけで受け取った。少ししてから、ぽつりと話し始めた。
「……この店の前に来る道、街灯がいくつかあるでしょう」
「ええ、ございますね」
「さっき、そこで影がついてこなかったんです」
「影が、ですか?」
彼はうなずいた。
「歩いても、足元がまっさらで。おかしいなと思って後ろを見たら……」
間が空く。一つ、息を呑んだようだ。
「影が、十歩ほど後ろに立ってました」
──またか。
「気味が悪いので走ってきたんです。でも、影は追いかけてこなかった」
しばらく黙っていたが、彼が話す気配がないので問いかける。
「……何か、お心当たりは」
彼は首を振った。
「特にないですね」
彼は口元にカップを運び、少しだけコーヒーをすすった。
「たまにそういうこと、あるんですよ」
へえ、と彼が言った。
「その影、ぶん殴れるんですかね」
──殴るつもり、なのか。
「……物を投げたら当たった、と聞いたことはあります。ああ、それと、影を見た人で死んだ人は、私が知る限りでは一人もいません。何人かはぱたりと店に来なくなりましたが」
それ以上、彼は何も言わなかった。飲み終えたカップをカウンターに戻し、代金を置いて出ていった。
「ありがとうございました。また、お待ちしております」
扉が閉まる。遅れて外の空気がこちらに届いた。通りを眺める。窓の向こう、誰かが灯りの下を歩いている。影は、よく見えなかった。