中編

死神 第三話

【1】

換気扇の音が、台所の方で低く唸る。ソファには、黒いローブが寝転がってくつろいでいる。ずっとテレビを見ており、一向に帰る気配がない。

「お前、いつまで居るつもりやねん。そろそろ帰れや」

声をかけると、死神がゆっくりこちらを振り返った。

「そんなあ。歓迎してくれたの、そちらじゃないですか。それに、まだ任務が終わっていませんし」

悪びれる様子もなく、そう返してきた。

「知らんがな。ずっと俺の家におってええとは言うてへんやろ。つーかお前、さっきからテレビ見てゴロゴロしてるだけやろ。職務怠慢とちゃうんか」

死神が、少し口を尖らせる。

「今は就業時間外です。それに……外、寒いですし。雨風をしのぐのも大変なんですよ」

結構楽しんでいる、などとついさっきまで言っていた者の言葉とは思えない。

「前から思っとったんやけど、なんでそういうところ、妙にしょぼいねん。仕様変更しろや」

「できませんよ。仕様決定権限は開発部局、予算権限は財務部局が握っているんです」

そう言って、死神は膝に手を置き、背筋を伸ばした。

「冥界にも、開発部局とか財務部局とかあんのかよ」

「ええ。これがまた、実務部局の苦労を知らない堅物揃いでして」

死神が、苦い顔でぼやいた。

「ご愁傷さん。でもお前、標的以外からは見えへんのやろ。なら、どっかのホテルのラウンジにでも忍び込んだらええだけちゃうんか」

しばらく黙ったまま、死神は膝の上に視線を落としていた。

「それはそうなんですけど。でも、妙に鋭い人がいるもんなんですよ、ああいう場所って。正直めんどくさくて。私は生きてる人間と接するの、あまり得意じゃないんで」

言いながら、どこか所在なさげに目を逸らした。

「嘘つけ。お前、俺とめっちゃしゃべっとるやないか」

「……まあ、あなたは半分くらい死んでるようなものですから」

──ゴンッ。

げんこつ。

「……ひどい」

椅子を少し引き、息を深く吐く。

「第一、ここにお前を居候させたとして、俺に何か得でもあるんか?」

死神の目が、こちらを見つめた。

「いい質問ですね。では、ご説明いたします」

死神が、すっと背筋を伸ばした。表情が切り替わる。

「私をこの家に置いていただくと、以下のようなメリットがあります」

死神が小さく一つ息を吸う。

「まず、防犯性能の向上が見込まれます。私は標的の気配を検知できるため、不審者の接近を──」

「怪しい奴が来たら分かるってことやな」

「はい。霊でも人でもそれ以外でも。たとえば、ミサイルや隕石などでもわかります」

「高性能過ぎやろ。軍事利用されんことを祈るレベルや。つーか、そこ尖らせるより前に、もっと他にすべきことがあるやろ。寒さ対策とか雨風対策とか」

「それはまあ……同感ですね」

「まあええわ。で、迎撃力は?」

「あなたほどではないですが、ある程度物理的にも迎え撃てます。さすがにミサイルは無理ですけどね。それと、生物相手の場合は命を刈り取って倒すこともできます」

「そこはなかなか死神らしいんやな」

ええ、と口元を小さく綻ばせながら、死神は続ける。

「あとは、炊事・洗濯・掃除・ゴミ出しなど、生活支援業務にも対応しております」

「お前の前職、家政婦かなんかなん?」

「過去の案件で、生活支援が未練解消に繋がった事例がありまして」

「まじか」

少し間を置いてから、死神の声が変わった。ほんのわずかに、真面目な調子になる。

「それと、これもかなり重要です」

じっ、とこちらの目を見つめる。

「なんや」

「寂しさ、まぎれますよ」

真顔だった。

「そういう言い方すんなや。気持ち悪いな」

「でも、事実でしょう」

死神は、自信ありげな表情をしてそう言った。

「……お前、任務内容なんやった?言うてみ」

死神が、姿勢を正す。

「あなたの命を、刈り取ることです」

沈黙。拳を振る。死神は身を引いて避けた。すかさず逆の手で横面を張り倒す。死神が頬を押さえ、うずくまる。

「……通告……」

「サービス期間は終了したんや」

「……何でもかんでも、そうやって暴力に訴えるの、ほんとよくないと思います」

「正論やな。でも、殺人未遂罪・脅迫罪・住居侵入罪・ストーカー規制法違反をかましとるお前が言うな」

死神は言葉に窮した。尻目に立ち上がり、流しの生ゴミを袋に放り込んで結ぶ。背中を向けたまま、声だけを投げる。

「まあええわ。好きにせえ」

「え?」

「聞こえへんかったんか。好きにせえ。死神でもなんでも、最低限の礼儀を弁えてたら問題ない」

死神は黙って視線をうろつかせている。

「でもな、俺はお前を信用してるわけちゃうぞ。ただ、拒否せんかっただけや。あと──」

「メシ以外の家事はお前が担当やからな」

そう言って、ゴミ袋を死神に投げた。死神は無言で受け取り、そのまま玄関へ向かう。扉の音が、小さく鳴った。


【2】

その夜は、どうしても眠れなかった。横になってはいるが、目は閉じていない。豆球にぼんやり照らされた天井の木目を、視線がなぞる。

──拒否、されなかった。

彼の言動には、明確な警戒心があった。信用していないとも言った。それでも、追い出されはしなかった。

──面白いな。

少々粗野だが、決して暴力的なだけではないし、直情的でもない。物事を冷静に、よく観察している。

──刈るよりもっといい方法、あるんだろうな。

生唾を一つ飲み、静かに身を起こす。布団の上で、指先をわずかに動かす。

──試してみるか。

刈り取りに、大仰な儀式はいらない。命の輪郭に、そっと触れる。それだけで事足りる。まずは、全体ではなく一部だけ。彼の身体に触れるか触れないかのところまで手を伸ばす。そのとき、何かが弾けるような音がした。

視界の端から何かが飛んでくる。身をひねり、ぎりぎりでそれを躱す。

──湯呑み。

考える間もなく、物がどんどん飛び交い始める。リモコン、分厚い辞書、空の鍋、雑誌、椅子、缶詰、空き瓶、電気ケトル、──なぜか、観葉植物。部屋中のあらゆる物体が、こちらに向かって暴れ出す。

事態を呑み込めないまま、なすすべなく床にうずくまる。やがて嵐のような動きは、ぷつりと途切れるように止んだ。

彼の生命に触れようとしたことが引き金だったのだろうか。部屋が暴れ出したのは、その辺りからだった。

天井を見上げた。木目がこちらを見て嗤っている気がした。

彼は、何もしていない。ただ眠っていただけだ。

──触れようとしただけで、これだ。やはり彼には何かある。

ぼんやり木目を見つめていると、薄暗がりで人影が動いた。

「さっそく刈ろうとしたか」

声が聞こえ、跳ね起きた。照明がつけられる。彼は起き上がり、ベッドの端に腰かけていた。

「起きていたんですか」

「どうやろな。けど、命の危険にはどうも昔から敏感でな」

黙って、彼を見つめ返す。

「今更ですが、よく私を家に泊めましたね。命を狙われているとわかっているのに」

「やっぱ変なんやろな。ま、おかげさんで明日はたぶん寝不足や」

それと、と言ってひと呼吸置き、彼が続ける。

「一応、訊いとくわ。今、何しようとした」

「試行……軽い接触です。あなたの命に、ほんの少しだけ」

「刈るつもりはなかったんか?」

「はい。命を引き出されるリスクはどれくらいか、それだけ試そうとしました」

彼は小さく笑った。ため息ともつかない音が響く。

「嘘ついてごまかそうとせんのやな。さっきまでみたいに」

「ええ、ごまかしは通じなそうなので」

「それはええ心掛けや」

それにしても、と彼が続ける。

「お前、噛みつく練習する子犬みたいやな」

「犬、ですか」

「冥界の犬みたいなもんやろ。見た目は人型でも」

「……失礼ですね」

「冥界のやつに失礼言うたら祟られるんか?」

「いえ、特に」

やりとりの間中、彼は部屋中を歩き周った。倒れた椅子を立て直し、観葉植物を整え、湯呑みを拾い、調理器具や食品などを基も場所に戻した。焦るでもなく、落ち着いた所作だった。

「不思議ですね……あなた、驚いてない」

「ちょっとはびっくりしとる。ただ、あんまり騒がへんだけや」

彼は分厚い辞書を手に取りながら、そう言った。


【3】

「ところでお前、最初うち来た時にやる気ないとか言うてたな。あれ、半分くらいは嘘やろ」

死神は何も言わない。

「別に構へん。最初から、気付いとったしな」

死神が黙ったままこちらをじっと見るが、否定はない。

「刈る刈らんはお前の自由や。狙われてもうた時点で、止めろ言うてもどうにもならんやろ」

そこで一度、口をつぐむ。

「──ただ、刈らんでいてくれると、助かる」

怒ってもいない。皮肉でもない。ただの本音だ。沈黙ののち、死神が口を開く。

「……あなたの命、守られてますね」

「せやな。勝手に守られる」

「やはり、あなたの意思ではないんですね」

「俺が気づいてへん部分については、俺の意思ばっかじゃないな」

死神は、何も言わない。

「ま、守る側の方が、俺以上に俺の命のことをよう分かっとる。そんな感じや」

死神が足元を見る。雑誌がまだ床に広がったままだった。拾おうとする気配はない。

「……やはりそうでしたか……」

「せやな。わりと昔からや」

「なぜ?」

「知らん。けど、ちっさい頃、死んでてもおかしくないような事故に巻き込まれたときからや」

ポケットから煙草の箱を取り出す。一本咥えたが、火はつけない。

「そいつのおかげなんやろな、いつもなんやかんやで回避できてる。ギリギリのところで、何回もな」

死神はこっちを見ている。

「ロングピースですね、それ」

「なんや、知っとるんか」

「ええ、好きなんです。昔よく吸っていたので」

「気ぃ合うな。一服するか?」

箱を軽く傾け、一本抜いて差し出した。

死神は少し間を置き、それから小さく頷いて、一本抜き取った。ジッポを取り出して、火をつける。そのまま火口を向けると、死神は少し身を屈ませて、静かに火を受け取った。

「……ありがとう、ございます」

先端がわずかに赤く染まった。煙が立ち上り、ゆっくりと、空気に溶けていった。

「あなたは、自分が何に守られているのか、気づいているんですか」

「どうやろな。お前は、多少勘付いとるみたいやな」

「おそらく。でも、あなたの意見を聞きたい」

「さあな。もうちょい信頼関係ができるまでは、おあずけや」

煙が部屋に広がっていく。

「……おあずけ。犬、ですか」

「冥界の犬やろ」

「まあ、そうですけど」

「やけに素直やな。どうしたんや」

言ってから、死神の方に目を遣る。死神はこちらを見ず、立ち上る煙を見つめていた。

「……あなたは、なぜ、私を受け入れたんですか?」

死神の口から、ぽつりと言葉が落ちた。問いというより、思考が漏れてしまったような声だった。

「受け入れたつもりはないで」

「でも、追い出しはしなかった」

煙草を指先でくるくると転がす。一本の細い線が、関節の節に沿ってゆっくり回った。

「信用ならんやつは遠ざけるより傍に置いとく方が安全っていうからな」

死神がわずかにこちらへ目を向ける。目線は合わない。が、何かを飲み込むように、ほんの少しだけ表情が揺れた。

「それ以上の意味付けは、お前が勝手にすることや」

「意味付け、ですか」

「ああ、意味付けや」

死神が煙と共に細く息を吐き出す。

「今の私にとっては、一緒に一服できる変な人を見つけた、ですね。とりあえず」

しばらく沈黙が続いた。が、ふと思い出して口を開く。

「……そういや、お前、名前は?」

「ありませんよ、名前は」

死神は即答した。

「本名とかコードネームとかあるんとちゃうんか」

「いえ、役職名で呼ばれるだけなんで」

死神はローブの内側から何かを取り出して、ちらと眺める。

「役職名は第三執行群特命中隊三位補佐です」

「長いわ」

「長いですね。私もしょっちゅう忘れます」

苦笑ともつかない顔つきでそう言った。

「もうちょいわかりやすくて短いのにすべきやな。名前、もう一回言うてくれ」

「死神第三階級現場指導官一号です」

「さっきと変わっとるやんけ」

「ばれましたか」

わざとらしいほどの真面目な顔つきをしている。

「まあええわ。もうめんどいし、ポチでええやろ」

「却下です」

「タマは?」

「ペットですか私は」

「文句多いな、居候の分際で。ほな、パシはどうや」

「何ですか、それ」

「パシリの略や」

「もっと嫌です」

口ぶりだけは軽いが、一貫して気に入らないようだ。

「せやけど、呼びやすいのがええやろ。“死神”とか言いづらいし、第三執行なんちゃら、なんかは論外や」

しばらく返事がなかった。死神は視線を落とし、ほんのわずかに口元を動かす。

「……人間界で名を持つと、“定着”する恐れがあるんです」

「定着?」

ええ、と死神が頷く。

「こっちの世界になじみ過ぎると、死神の世界、あなたが言うところの冥界に帰れなくなる恐れがあるんです」

「それ、名前と関係あるんか?」

「ええ。“名を持つ”と、“そこにいる”ことになる」

「つまり」

ひと呼吸置く。

「俺が名前をつけたら、お前はここに“おることになる”ってことか?」

わずかな沈黙の後、死神が頷いた。

「……ええ。少なくとも、私はそれを否定できなくなる」

「まあどうでもええわ」

「えっ」

死神が視線を向ける。驚きが滲んでいるが、無視して言葉を継ぐ。

「お前の都合なんか関係あるか。何で自分を刈ろうとする奴にそこまで配慮せなあかんねん」

それに、と息を吐く。煙がすっと天井に流れた

「名前を付けられて困るならさっさと出ていけばええやろ」

ゆっくりと口角が上がるのが自分でもわかる。死神は何も返せず、黙り込んでいる。

「刈れんくせに刈ろうとする根性だけは一人前やから、●●●●でええわ。物理学者みたいでかっこいいやろ」

死神が目を見開き、こちらを凝視する。

「やめてください、お願いですから」