中編

死神 第四話

【1】

不本意な命名をされてから、数日が過ぎた。この家での暮らしは、思いのほか静かで、快適だ。ある薄曇りの朝、玄関から声がした。

「ちょっと買い出し行ってくるわ」

顔をのぞかせて返事をする。

「わかりました。じゃあ、私は掃除でもしておきます」

「おう、頼むわ」

扉が閉まり、鍵のかかる音がした。部屋は、いっそう静かになった。

居間のソファに腰を下ろし、深々と息を吐く。束の間のひとり時間だ。数日前、彼が押し入れから引きずり出してきたエプロンを身につける。紺一色で無地の、素朴なデニム地だ。

チューナとアンプの電源のスイッチを入れ、ラジオをつける。ピアノの音色が耳に届く。

──ハニーサックル・ローズ、か。ビル・エヴァンスの。

演奏を聴きながら洗濯機の前へ向かい、洗濯物を放り込む。洗剤と柔軟剤を入れ、蓋を閉める。それから、ボタンを押すと、洗濯機が唸り始めた。

唸る洗濯機を背に、掃除機を取り出す。フローリングを一通りかけてから、ソファの下に溜まった細かな埃を吸い込んでいく。

ひと通り終えると、台所に向かう。流しに残っていた湯呑と茶碗を手に取り、水で濡らす。指先で汚れの縁をなぞりながら、静かに洗っていく。

「生きてる人間がやることのはずなんですけどねなんだけどな、これ」

水を止め、布巾で手を拭く。窓の外から、子どもの笑い声が聞こえてきた。近所の子たちだろう。子どもたちの賑やかな声に耳をそばだてる。

──たしか前にも。

はっ、と我に返る。口元が、なぜか緩んでいた。どうも、調子が狂う。一つ大きな息をつき、布巾で居間のテーブルを拭いていく。それから、テレビのリモコン、置きっぱなしの新聞などをまとめる。他のものも、あるべきところへ整頓する。不要なものはごみ箱に入れた。

人の営みの繰り返していると、自分が人であるかのように思えてくる。懐かしさを覚えることさえある。長居する現場では、大体こうなる。が、今回はそれが顕著だ。

「やれやれ。人間の営みの侵食力、恐るべし」

上を見て、ため息をつく。天井には、照明が静かにぶら下がっている。視線を落とすと、壁の額縁が目に入った。縁に触れると、ひんやりとしていた。

「夜のカフェテラス……。活気と、孤独。あの人あいつらしい、のかも」

しばらく、ぼうっと絵を見つめた。姿勢を直そうと足の位置を変える。その瞬間、鋭い痛みが足に走った。

「……っ」

慌てて足を浮かせる。

──画鋲。

親指付け根に刺さっている。掃除機をかけたとき、見落としたか。拾い上げ、机の隅に置いた。天井を見上げる。照明が、微かに揺れていた。ゆっくりとソファに腰掛ける。彼は、もうじき戻ってくるだろう。気づけばまた、口元が少し緩んでいた。

程なくして、鍵が開く音がした。玄関へ向かい、声を掛ける。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

彼は眉をわずかにしかめ、開口一番言った。

「二度とそれ言うな。気持ち悪いわ」

「居候の身で提供できるサービスの一環かな、と思ったのですが」

呆れたように片眉を下げ、彼は、短くため息をついた。

「それやったら、肩でも揉んでくれ」

「隙だらけになりますね。刈り取りますよ、命」

「ほんまにやるやつは警告せえへんわ。チャンスが来たら、黙って殺るねん」

表情を和らげ、彼がふっと笑う。こちらもつられる。こういうやり取りが、挨拶代わりになってきている。

そのままキッチンに向かい、買い物袋の中身を順に取り出す。じゃがいも、たまねぎ、豚肉、豆腐、卵、牛乳。別の袋には、みりんと料理酒、切れかけていた醤油の詰め替えもある。彼は、決まった場所にそれらを収めていく。

その後、彼は冷蔵庫の上段から調理器具を取り出した。何を作るかは言わない。やがて、彼はまな板の上で野菜を刻み始めた。その響きは、なぜかいつも音楽的だ。こちらの呼吸まで整っていく気がした。

「……ひとつ伺ってもよいですか?」

「なんや」

彼は手元に目を向けたままだ。

「どうして料理をご自分でなさるんです?」

「俺以外に誰が作るねん」

「選択肢としては私も可能性に含まれるかと」

「毒盛られたらたまらんやろが」

「なるほど。たしかに」

素直にうなずく。また少し間を置き続ける。

「ご安心ください。そんな陰湿な手段は取りませんので。やるときは正々堂々いただきますよ」

「できるか、アホ」

だが、口元は笑っている。しばらくして、まな板の音が止まった。フライパンに油を引き、火にかけ、振るう。油が弾け、にんにくの香りが立ちのぼる。

その動きを目で追う。火の強さ、鍋の振り方、食材の大きさ、鍋に入れるタイミング。全てに「加減」という概念が絡んでいる。

「なんや、料理番組でも見てる気分か?」

フライパンを返しながら、彼が言った。

「傍できちんと見てみると、あなたの生活、意外と複雑なんですね。あと、丁寧です」

「そうか?」

彼が鍋に野菜を放り込む。火加減を絞りながら、調味料に手を伸ばす。

「ええ、私のような者よりは。刈るだけの存在にとって、繊細な加減はほぼ無縁なので」

へえ、と彼が返す。

「ところで」

「なんでしょう」

「冷蔵庫から醤油取ってくれ」

「醤油。ああ、あの……死を早める塩分の化身ですね」

彼が呆れたように笑った。ツボだったのだろうか。

「お前、醤油になんか恨みでもあんのか」

声の端に、まだ笑いが残っている。

「“殺すための道具”には敏感なだけです」

「いや、もうええわ。はよ取ってくれ」

立ち上がり、冷蔵庫から醤油を取り出す。濃口だ。

「こちらですね」

手渡す。

「おう、ありがと」

そう言うと、彼は匙を使わず、直接フライパンに注ぎ込んだ。少しして、小皿に煮汁を垂らし、指先で持ち上げてひと口。うん、と小さく呟いた。

「さっきの話やけどな、お前は家事全般がかなりうまい。あと、煙草を楽しめる。刈り取りを保留して命を見つめることもしてる。それは、複雑とか丁寧、ってことにはならへんのか」

わからない。だが、そうかもしれない。

「……たしかに、そうかも……」

口の端を微かに上げて、彼が言う。

「せやろ。なかなかおもろいで、お前。嫌いとちゃうわ。ま、油断ならんけどな」

腹の底に何かが沈む。恐怖のような感触だった。だが、それだけではない。なぜか、嫌ではなかった。

──ありがとうございます。

そう言いかけたとき、鍋の中で小さな破裂音がした。

「おっと」

彼は手早く火を止め、蓋をした。

「飯できたで、運んでくれ」

頷き、立ち上がって食事を運ぶ。豚肉の甘辛煮に、炒め野菜。質素だが、栄養バランスはしっかり考えられている。

配膳を終えた後、テーブルに着いた。箸を取りかけて、手が止まる。

──侵食されている。ここ数日は特に。自分が誰で、何なのか。存在する意義と理由。それらが剥ぎ取られていく。あるいは……。

「なんや、食わへんのか?」

言い淀む。目の前のものは、本来、私には必要のないものばかり。“死”しか扱わない私が、“生”の営みを模倣している。

「……なんか、不似合いですね」

「何がや」

「この食卓の色、形、温度。全てが死からほど遠く、“生”の象徴に見えます。私だけですよ、”死”の象徴なのは」

「急にどうしたんや。それに、食材はみんな死んでる。ある意味では”死”の象徴や」

「詭弁ですよ、それは。刈る側から見ると、“生活感”ほど強固な命の証はありません」

彼は甘辛煮を口に運びながら言う。

「まあ、たしかにな。“今日も飯がある”ってだけで、だいぶ生きてる気にはなるな」

「でしょう」

「せやけどな……」

「はい」

「“生活感”で命は守られへん。人なんか、予兆もなしに、あっけなく死ぬ」

「……」

返す言葉がなかった。明確な事実だ。死は突発的に、理不尽に訪れる。“生活感”が、死から慈悲を引き出すことなどない。

互いに黙る。ラジオの音が、やけに響く。

「……過去に何か、あったんですか」

目を少し伏せたまま、低く呟いた。

「……さあな。あったとしても、お前には教えん」

何も言えず、小さく頷いて返した。

「私は、少し混乱しているのかもしれません」

「ほう」

「この数日間、私は“あなたの死”を一度も意識していない。これは、業務的には非常にまずいことです」

「ええんちゃう、休んだら。その方が俺も助かるし」

「私たちに休暇という概念はありません。常時、任務対象を把握し、潜在刈り取り可能性を評価し続けなければいけないんです」

「真面目なことで。つーか、そんなんしながら家事してるんか?」

「理想としては。しかし、できていません」

彼は考えるような様子。そして、ふっと笑った。互いに笑う。その“笑い”には、どこか奇妙な温度があった。

「まあ」

言葉を継ぐように、彼がぽつりとこぼす。

「死神でも、生きてるやつらと同じことくらい、してもええと思わへんか。休むとか、飯食うとか。したいなら、やけど」

返す言葉が見つからず、黙っていると、彼が続けた。

「ええから、とりあえず食え。なかなかうまいぞ」

それには答えず、彼に問う。

「ひとつ、訊いてもいいですか」

「なんや」

「あなたにとって、私ってどういう存在なんですか」

「面倒くさいなお前……死神はかまってちゃんなんか?」

無視して、言葉を続ける。

「人間の基準ではなく、“あなたの中で”の評価で構いません」

彼は箸を止めた。しばらく黙って、天井を眺める。

「家賃払わん上にポンコツやけど、家事だけ有能な変なやつ」

「それは……喜ぶべきなんでしょうか」

「知らん、お前の受け取り方次第やろ」

「私のアイデンティティが狂いそうです……」

彼の表情がかすかに緩んだ。苦笑いのような、呆れたような。

「いい機会やろ。“生”に巻き込まれたんなら、もうちょい“生”の側から物事を捉えたらどうや」

「“生”の側……」

ふ、と口の端が上がる。

──悪くないか、生者の真似事も。

「なんか言うたか?」

「いいえ。いただきます」

湯気の温度を感じる。匂いも、ちゃんとある。美味そうだ。一口、運ぶ。やはりうまい。彼がこちらを見て、声を掛けてきた。

「ところで、家の中、めっちゃきれいにしてくれたな。助かるわ」

思いのほか胸に響く。頬が緩みかけたと、少し遅れて気が付いた。

「こう見えて、勤勉ですから」

「本業以外ではな」

彼がわざとらしく意地の悪い顔をする。

「本業達成のための布石です」

「そんな悠長なことしてたら、達成前に“定着”してまうんとちゃうか?」

「心配には及びません。必ず刈り取りますから」


【2】

食卓には、空の器が並んでいる。箸を置き、器を見下ろす。

「ごちそうさまでした」

小さく頭を下げると、「おう」と言い、彼は軽く頷いた。

食器を重ねて流しへ運び、蛇口をひねる。水の音が響く。汚れを水で軽く落とし、水を張ったたらいに沈めていく。

居間に目を向けると、彼は椅子の背にもたれていた。壁の額縁をぼんやりと眺めている。視線の先には額縁──”夜のカフェテラス”の複製画──がある。やはり、なぜか彼によく似合っている。

居間に戻り、急須に湯を注ぐ。緑茶の香りが立ちのぼった。しばらくした後、湯呑をそっと並べ、ひとつを手渡す。

「お茶、入りましたよ」

「おお、サンキュ。そういや、ええもん買ってきてるで」

ビニール袋の口を開け、そこから包みを取り出した。

「出町ふたばには負けるけどな。これもなかなかやねん」

「出町ふたば?」

「ああ、昔通っとった大学の最寄駅近くにある和菓子屋や。大学んときはしょっちゅうそこの大福を食ったもんや」

言いながら、彼は包みをほどいていく。

「へえ、甘党だったんですか」

「ツレにつきおうてるうちに、そうなってもうた」

柔らかい皮を、ゆっくり裂いて見せる。餡が、覗く。

「どんな方だったんですか」

湯呑を手にしたまま、考え込むように黙り込む。彼はしばらく何も言わなかった。湯気が、ゆらゆらと揺れている。

「……変なやつやったわ。あと、めちゃくちゃに頭がよかった」

そう言って、懐かしむように静かに笑った。

──いい友達、だったんですね。

そう言いかけた、その瞬間。

──ガツン。

衝撃。頭の上に、硬いものがぶつかった。

「……っ……」

──え、と彼が短く漏らす。

視界の端で、何かが跳ねる。額縁だ。遅れて、痛みが鈍く響く。咄嗟に身をすくめ頭を抱えた。

「どないした、大丈夫か」

静かに息をつきながら、背を起こす。

「……はい。問題はありません。少し、驚いただけです」

しゃがみ込み、額縁を拾い上げる。少し歪んでいた。彼は釈然としない表情をして呟く。

「釘、ゆるんでたんかな」

壁を見る。たしかにフックがわずかに傾いている。彼は何も言わない。部屋が、しんとしている。

「こういう形で傷を負うことなど、滅多にないのですが……」

ふいに、天井からカチャリと音がした。反射的に見上げる。シーリングライトのカバーが傾いている。

「あ……」

動いた。が、避けられず、前頭部に衝撃が走る。派手な音を立てて、カバーが床に転がった。

「……っ」

また、頭を抱える。今度のは、さらに痛い。そして彼と、黙って顔を見合わせる。

何かを考えるように、しばらく彼は黙っていた。が、やがてぽつりと呟いた。

「お前、嫌われてるんちゃう?」

「ええ……何にです?」

「幸運の女神、とか」

「……否定できませんね」

「あと、言っとくけど、額縁と照明カバー落ちたん、初めてやからな」

「……そうですか」

頷いてそう言った瞬間、何かが口元めがけて飛んできた。

──大福……?

「……あ、どうも」

塞がれた口で、礼を言う。思っていたより間の抜けた声だった。

「それ、食べさせてくれたんちゃうと思うで」

頷くだけで返事はせず、ゆっくりと咀嚼してから、口を開いた。

「これ、ほんとにおいしいですね」

「せやろ。でも、今それ言うか?」

呆れたようにそう言った。湯呑をそっと置き、もう一つ、大福に手を伸ばす。そして、静かに頬張った。彼はこちらを見ながら、椅子にもたれ直した。

「それにしても、どうなってるんやろな。明らかにお前だけ狙われとるよな」

頷いてから言葉を継ぐ。

「ええ。これ、あなたを守る存在が関係してませんかね」

「あー……」

曖昧な相槌を打ち、彼は目を伏せた。

「今のところ、あなたが近くにいるときしか攻撃されていませんし」

机の上の、画鋲に目をやる。

「そうなんか」

「ええ。歓迎されていないのかもしれませんね。一応、あなたの命を狙う存在なので」

「一応って自分で言うんか。お前、それでええん?」

「休暇中ですので」

「さっきと言うてること変わっとるやないか」

口元がまた緩みそうになったが、応じず、ソファに腰を下ろして言葉を継ぐ。

「あなたを守るため、かもしれませんね」

彼は机の端に腰かけ、腕を組んだまま宙を見ている。時計の秒針が、いつもよりよく響いている。

「……なあ」

「なんでしょう」

彼がこちらに向き直る。

「ほんまに、そうなんかな」

「と、言いますと?」

「額縁もカバーも、たしかにピンポイントでお前に落ちてきてるけど──」

「はい」

「最初の夜よりずっと穏やかやろ」

「たしかに。最初は植木や家電まで飛んできましたからね」

「俺を守りたいってのは、たぶんあるやろな、と思う。でも、それだけとちゃう気がすんねん」

──たしかにそうだ。本当に守ることだけが目的なら、最初の夜のように、もっと明確な意志と力で狙い撃ってくるはずだ。それも、四六時中。

「さっきのは、どう考えても軽すぎる。詰めも甘い」

彼は、小さく目を細める。

「本気、ではないと?」

「たぶんな。本気やったら、少なくとも刃物投げたり、拳銃ぶっ放したりするはずや」

「なぜでしょうね」

「わからん。ただ、俺を守ってるやつの目的は、“俺を守ること”であって、“お前を倒すこと”やないってのは確かやろな」

彼が、こちらに目を向けた。そのまま句を継ぐ。

「そこに──、お前が突然入ってきた。俺の命を刈るために」

「そうですね。最初は明確な拒絶。ですが、それきりでした」

ひと呼吸おいて、言葉を継ぐ。

「なのに、ここにきて攻撃が再開している」

「……なんなんやろな」

彼は額縁を拾い、壁に立てかけた。


【3】

「ぶしつけで申し訳ないのですが、あなたの過去について少し伺ってもよろしいですか。幼少期に遭遇した事故の話です」

言葉が、口を衝いて出た。自分の声がいつもより低いと、話し出してから気が付いた。

「何や、急に」

彼が眉をひそめる。だが、棘は感じない。そのまま続ける。

「あなたを守る存在がどのような存在かを知るためです」

そうすれば、先ほどまでの出来事について何かわかるかもしれない。

一連の出来事は、偶然とは思えない。真っ先に考えられる原因は、彼を守る存在だ。彼はしばらく黙ったまま、壁の方を見ていた。

「……前に言うたやろ。“そいつ”は、事故のあとに現れたって」

「ええ、仰ってました。爆発事故に巻き込まれた、と」

壁に立てかけられた額縁を一瞥し、彼はこちらに目を向けた。彼と目が合う。

「そこまで話してたっけな」

目だけ額縁に向け、目を逸らす。

「まあええわ」

そう呟いた後、彼は大きく息を吐いて、静かに話し始めた。

「正直、よう覚えてへんねん。五歳やったしな」

彼は水をひと口飲み、ソファに浅く腰掛けた。何も言わず続きを待つ。

「事故があった場所は、なんかの施設や。研究所みたいなとこでな。おとんがそこで働いとった。その日はたまたま、おかんと一緒に弁当届けに行ったねん」

彼が、言葉を探すように黙り込んだ。

「で、気がついたら、病院やった。何が原因かは知らんけど、爆発事故があったと後から聞いて知った」

胸の奥が、わずかに重くなる。言葉は、すぐには出てこなかった。

「……ご両親は、その事故で亡くなったんでしたね」

「ああ」

「でも、あなたは助かった」

「まあ、な。半月くらい昏睡状態やったらしいけど」

もう少しで死んでいたという事実が、他人事のように語られた。

「で、気がついたとき、病室の棚にあれがあったんや」

「あれ、とは」

「ぬいぐるみや」

彼は、PCデスクの上棚を指さした。手のひらに収まるほどの、小さなクマのぬいぐるみだ。毛並みはくすみ、右耳は少し潰れていて、リボンはほどけかけている。長いあいだ抱かれていた時間が、そのまま沁みついているかのように見えた。

「元々はおかんのやつやったのをおさがりでもらったねん。ちっさい頃は、寝るときも一緒ってくらい大切にしてた。で、事故んときも手に持ってたんや。一緒に吹っ飛んだはずやのに、気ぃついたら、病室にあった」

彼はぬいぐるみを見つめながら、そう言った。わずかに眉が下がっていた。

「ただ、病院の誰に聞いても、置いた覚えがない、って言うねん」

黙って頷き、続きを待つ。

「その頃からや。何かが俺の傍におる、って思うようになったんは。車に撥ねられても骨折ひとつなかったり、三階から落ちても無傷やったり。一回だけならわかるけど、何回も続くとか、普通あり得へんやろ」

頷いて返す。

「記録上、それらの件はすべて“幸運”で処理されていました」

「調べてたんかよ」

「もちろん。対象者の生存傾向は、任務前にすべて精査しますので」

「うわ、いやらしい死神やな……」

「周到、と言っていただけませんかね」

「ほんまに周到やったら、俺を刈ることなんて、試してみようとも思わんやろ」

彼は、呆れたような表情で苦笑している。そのままクッションを枕にして、ごろんと横になった。

「で、その傍におる奴がたぶん今も俺を守ってる。そいつの狙いも正体も分からへん。でも、そいつのおかげで、俺は無事に生きてこられた」

「……もしかして、ですが」

彼がわずかに眉を上げる。

「自分の命が、自分だけのものではない感覚。そういうの、ありますか」

彼はそれに答えず、ただ黙って天井を見ていた。

しばらくすると、彼はすっと立ち上がり、ぬいぐるみを手にした。

「……ガラとちゃうよな?」

「ガラ?」

「こんなん持っとるタイプちゃうやろ、どう見ても」

苦笑しながら、彼は掌でぬいぐるみを転がしている。 

「そうですね。でも、ずっと持ってるんですね」

「まあな」

「このぬいぐるみ見てると、時々よう分からん気持ちになるねん」

黙ったままでいると、彼が口を開いた。

「俺を守るために、誰かがこれに何か残したんかなって」

──そうですね。

言いかけて、口をつぐんだ。

「その“誰か”や“何か”、もしそういうのがあるとしたら、普通は真っ先におかんかおとんやと思うやろ?でも、たぶんちゃうねん。俺はそれが“親”やと感じたこと、一回もないんよ」

そう言うと、彼はテーブルの上にぬいぐるみをそっと置いた。そして、ソファに戻ってあぐらをかき、しばらく目を伏せた。

「研究職でしたよね、ご両親」

「ああ。何を研究しとったかは知らんけど、いつも帰りが遅かった。特に、おとんが」

彼の顔を見る。表情からは感情を読み取れない。

「そのせいかな。俺、おかんのことはそれなりに思い出せるねんけど、おとんのことはあんまり覚えてへんねん。ただ、嬉しそうに難しそうな話をしてきたことと、机に向かって夢中で何かしてた背中だけは、今でも覚えてる」

黙って彼の話を待つ。

「……そんなやつやから、たまに早く帰っても、自分の話ばっかりするねん。おとんは俺のことなんかどうでもええんやろなって、ずっと思ってたわ。けど……」

主人公は首を横に振る。

「ほんまは、ちゃうんやろな。今更確認のしようもないけど」

「……ええ」

それ以上は、何も言えなかった。

テーブルの傍で膝を折り、ぬいぐるみに目を落とす。

「親だったらよかった、と思いますか。ぬいぐるみの中身」

「……分からん。ちっさい頃なら、そう思ったと思う。でも今やったら、申し訳ないと思ってしまいそうや」

気が付くと、深く息を吸っていた。吐きだしながら、彼に目を向ける。

「たぶん、大丈夫です」

ゆっくりと言葉を選びながら告げる。

「あなたが感じている通り。このぬいぐるみに、ご両親がいるわけではなさそうなので」

彼がこちらを見る。わずかに眉をひそめている。

「そういうの、分かるんか」

「まあ、多少は」

彼は何かを考えるように黙り込んだ。

「でも、何かが入ってるんは間違いないんやろ?」

ぬいぐるみに目を落としたまま、答える。

「いえ。これは、住処や止まり木みたいなものです。たぶん」

「住処?」

「あなたを守る存在の、です。家であなたと一緒のときだけ、よくここで休む、みたいな……そんな感じだと思います」

「そいつが何かはわからんのか?」

「そこまでは……」

彼の目が、まっすぐこちらを向く。

「……ほんまか?」

「ええ、すみません」

そう答えると、彼は目を逸らした。何かを考えるような表情のまま、しばらく沈黙が続いた後、彼は静かに口を開いた。

「まあええわ」

そう言われて、私は咳を一つついた。気を取り直すように、話を戻す。

「話を戻しますね」

目配せの後、彼は静かに頷いた。

「私を攻撃しているのは、状況から考えて、おそらくあなたを守る存在だと思います」

「そやろな」

「最初は、排除すべき存在だったはずです。実際、ここに来た日の夜、あなたの命に触れようとすると猛烈な攻撃を受けました。ですが……」

一息つく。

「それ以降、あのような激しい攻撃は一度もありません」

「なんでやろな」

「あなたの命を狙うことにあまり積極的でないから、でしょうかね」

「ま、職務放棄してるもんな」

「失礼な。私はエリィ~トですから、職務放棄などしません。ただの休暇です」

彼は、ふう、と鼻から長い息を吐いた。

「何がエリィ~ト、や。ポンコツのくせに」

彼は肩をすくめ、苦笑まじりにそう言った。

「ですが、ここにきてまた攻撃が始まってはいます。ただ、以前ほど激しくはありません」

つまり、と彼が言を継ぐ。

「排除するほどではないけど、目障りではある。そんなところか」

短く頷く。

「自分を差し置いて、あなたとどんどん仲睦まじくなる私が、目に余る、とか」

彼は呆れたような顔をした。

「別に睦まじくはないやろ」

わざとらしくため息をつき、軽く睨むように彼を見る。

「そういうことは、思っていても黙っておくべきだと思います」

返す口元が、なぜか緩む。彼も同じようだ。

「かもな。つうか、ほんまにやきもちなん?」

「可能性はあり得るかと」

「まじかよ、めんどくさいなあ。お前ら」

彼はあぐらを崩し、背中からごろりと寝転がった。

「ところで、お前って標的以外から攻撃されたらどうするん?」

「場合によります。ただ、今回は逃げるわけにはいきませんね」

ため息をつく。

「居心地のいい住処がかかってるからか?」

「それも、理由の一つです」

一拍置いて、言葉を継ぐ。

「なので、あなたを守っている存在に、きちんと筋を通します」

そう言って、天井を見上げた。照明のフックが、わずかに揺れたような気がした。

「筋を通すって、何の話や」

「私の役目について、です」

ああ、と言い、彼は続ける。

「やめへんのやろ?」

「はい、ですが……あなたがきちんと自分の命を活かし、取り返しがつかない程に道を踏み外さない限り、刈り取り執行は保留する。このことをきちんと言葉にして誓います」

ぴゅう、と口を鳴らし、彼はにやりと笑った。

「それ、死神の規則に、背くんちゃう?」

「今まで通りですよ」

そう嘯くと、せやな、と彼は短く笑った。

第四章

「すみません。つらいことを思い出させましたよね」

「ええよ、別に。どうせ、いつかは誰かに話す気ぃしてたし」

淡々とした声だった。

「それでも、私でよかったのかなと」

「誰でもええってわけちゃう。お前はお前で、ようわからんけど、まあ悪くなかったわ」

そう言って、彼は一瞬にやりとした。

「そう思ってもらえたなら、何よりです」

「ああ、ありがとな」

彼の方を見た。目も、笑っている。

──こういう笑い方も、するんだな。

すっと立ち上がり、居間の中央で足を止める。背筋を伸ばし、ゆっくりと息を吸う。息を整えるたび、空気が少しずつ張り詰める気がした。視線は定めない。何を見るでもない。ただ、”そこにいるはずの存在”へ向けて、深く、静かに頭を下げた。

──姿は見えませんが、この方を守っている方。大変、失礼を致しました。

空気が、わずかに揺れる。視線の端で、彼がわずかに目を伏せた。

──私は、この方の命を刈る存在です。しかし、むやみに刈るつもりはございません。あなたの守ってこられた方が、命の活かし方を誤り、取り返しのつかないほど道を踏み外さない限り、刈り取りは保留するつもりです。あなたの大切な存在を奪わずに済むよう、私も尽力いたします。どうか、ご理解ください。

他にも選択肢はある。だがなぜか、こうすることが自然に思えた。

突然、後頭部に何かが当たる。同時に、パシン、と乾いた音が響いた。

振り返ると、畳の上に丸めた雑誌が落ちていた。拾い上げる。輪ゴムで留められている。外すと、科学雑誌だった。

「どういうことですかね……?」

「理解はしたけど、調子に乗るなってところちゃうか」

苦笑気味に、彼は言った。

「挨拶代わりかもしれませんよ。全然痛くなかったですし」

彼と顔を見合わせる。

──あっ。

バゴン、と鈍い音が響く。

「うわっ!?」

今度は彼の後頭部だ。彼の後ろから、分厚い化学の専門書が飛んできた。

「待てや!何で俺までしばかれなあかんねん!しかも、めっちゃ痛いやんけ!」

「……活、ですかね。それか、守護霊心を解さない男に制裁、とか」

「やかましい。こいつ、絶対性格悪いわ」

彼は頭をさすりながら、苦笑いを浮かべた。つられて、こちらも緊張が解けていく。

「これは、一種の返事かもしれませんね」

「つきあう気はある、ってか?」

「ええ。なので、僭越ながら交渉成立、ということで」

彼が黙って頷く。また笑っている。

しばらくして、炊飯器から控えめな電子音が響いた。程なくして湯気がゆっくりと立ち昇り始める。それを、じっと見つめる。湯気の向こうの生活感が、少し遅れて胸に届く。言葉になる前の何かが、胸に迫る。それが何かは、わからない。言葉にもできない。ただ、確かに心のどこかが反応した。