まるしげ喫茶

自転車

彼と知り合ったのは、行きつけの喫茶店だ。数年前、カウンター越しに店主と他愛のない話をしていたとき、彼もその輪に加わってきた。ごく自然に、滑り込むように輪に馴染んだ。以来、顔を合わせればよく語り合うようになった。

ある日、学生の頃自転車を盗まれた、という話をした。彼はにやりと笑って口を開いた

「ああ、俺もあるわ。小倉でな」

「小倉って、北九州の?」

「そうそう。乗っとるときに盗られてな」

ひゅ、っと変な息が漏れる。

「何それ。信号待ちとかで降りとったんちゃうん」

「いや、漕いどった」

「は?」

変な笑いがこみ上げた。声が大きかったのか、少し離れた席の常連がこちらを振り返った。

「いやいや、無理やろ。漕いでる最中とか」

「あるんよ、それが。修羅の国やけん」

「説明、雑過ぎやろ。あり得へんわ」

「あり得たねん」

彼はなぜか誇らしげな顔をしている。訝しむ顔をしていると、彼は静かに語り始めた。

「俺、チャリで高校に通ってたんやけど」

一息つき、そのまま続ける。

「学校からの帰りに、いつも通る街中をゆるゆる走っとったねん。そしたら、横から急に男が出てきてな」

無言で頷き、続きを促す。

「そしたらそいつ、急にチャリのハンドルを掴んできたねん。で、無理やりサドルから押し出された」

「は?」

「『お前、何しよっと!』って言う間もなかったわ。地面に転げ落ちてな。で、そのまま、チャリごと逃げられてもうた」

「え、怖。もうそれ、強盗やん」

「チャリ版カージャックやな。F1のピットイン並みの早業やったで」

「怪我は?」

「かすり傷で済んだわ。ま、運が良かったんやろな」

──どこがやねん。でも、まあ……そうかもな。

カフェラテを啜った。ミルクの甘さが、少しだけ舌に残った。

「……で、警察行ったん?」

「行った行った。交番で言うたら、『またか』って言われた」

「またか……?」

「『よくあるんですよ』って」

「よくあるんかよ」

店の奥から、豆を挽く音が静かに響いている。

「まあ、修羅の国やけん」

──真顔で言うような話かよ。

思わず口の端が緩む。

「全部それで押し切んな」

彼がカップを軽く傾ける。

「で、自転車は見つかったん?」

「いや」

「そうか。災難やったな」

「まあな。まだどっかで使われとるんかなあ、俺のチャリ」

そう言って、彼は笑った。私は答えず、空になったカップをぼうっと眺めていた。

「さて、そろそろ行くわ。またな」

「おう」

彼はカウンターに代金を置き、静かに席を立った。扉が開いて、風が入る。窓の外を眺めていると、彼が自転車で去っていくのが見えた。